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名古屋高等裁判所 昭和36年(う)195号 判決

控訴人 被告人 石田哲郎

弁護人 森健

検察官 荒井健吉

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人森健提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

所論は、被告人が新海貞雄から為替手形の割引方の依頼を受け、原判示加古博和から該手形の割引金融を受けた金四万四千円のうち、一万円を新海貞雄に交付し、残額三万四千円を同人に交付せず、被告人が自己の用途に費消したことは争わないが、右は被告人が原判示帝国鑵詰株式会社に対する売掛代金支払のため同人から当時受領した小切手金五万三千円の手形金債権と対当額で相殺する意思で自己のため費消したものである。従つて、被告人の所為は法律上許容されたものであつて、罪とならない、というのである。

原判決引用の各証拠によれば、被告人が昭和三三年一二月九日ころ、当時帝国鑵詰株式会社専務取締役(代表取締役)新海貞雄から同会社のために額面一五万円の為替手形二通、同一〇万円のもの二通(原判決が金額一五万円の為替手形四通としたのは、以上の誤りである。)を、金融のため割引いて貰いたい旨の依頼を受け、同月一八日ころ、金融業者加古博和から、右額面一〇万円の為替手形二通のうち一通の割引残額として現金四万四千円を受領しながら、同日、うち一万円を新海に交付し、残金三万四千円につき、同人に無断で、同日二万五千円を被告人の福徳相互銀行に対する債務の弁済に充て、残り九千円をそのころ自己の生活費に費消した事実を認定できるのであり、この事実は、被告人も捜査、原審の各過程を通じて認めている事実である。

ところで、論旨は右金三万四千円については、被告人が帝国鑵詰株式会社に対して有していた金五万三千円の小切手金債権と対当額について、相殺したものであると主張するのであるが、実は、被告人は、原審公判廷で同旨の主張をし、その主張に副う小切手一通(証第五号)を提出したのであるが、原判決はこの点について何らの判断も示さず、被告人に対し公訴事実とおりの金三万四千円の横領の事実を認定しているわけである。然し、押収してある証第五号によれば、被告人が、昭和三三年一〇月六日帝国鑵詰株式会社専務取締役新海貞雄振出名義の額面金五万三千円の小切手一通を所持していること(なお、該小切手については、支払呈示期間内である同月八日支払人にこれを呈示したところ、支払を拒絶され、支払人により同日を宣告日附とする支払拒絶宣言が適法に記載されている)は、明らかである。そして、原審及び当審における証人新海貞雄の供述(原審の分は、同第四回公判調書記載のもの)及び原審第六回公判調書中武田国保の供述記載並びに原審及び当審における被告人の供述(但し、原審の分については、同公判調書中の被告人の供述記載)によれば、右小切手がどのような原因関係に基いて振出されたものか、そして又被告人がどのような経緯により右小切手を取得したものかについては、これを確認することはできず、被告人が主張しているように、当時食糧品店を経営していた被告人と帝国鑵詰株式会社との間のゴマ代金の支払のために、同会社が被告人に振出したものと認めることもできないが、該小切手が偽造のものであるとか、あるいは、被告人が、これを他から窃取してきたものであるとかの事実も又認められないばかりでなく、振出人会社の代表取締役であつた新海貞雄としても又これらの事実は一言も主張していないのである。してみれば、他に何らの反証の認められない本件では(なお、被告人の司法警察員及び検察官に対する供述調書中には、この小切手金債権の存在について被告人としてこれを主張した形跡は毫も認められないのであるが、前記の如く被告人が小切手を所持するものである以上、この点は前記認定をするについて支障となるものでないことは勿論である。)、被告人が、右小切手の振出日に適法にこれを取得し、従つて、被告人は振出人たる帝国鑵詰株式会社に対し、当時金五万三千円の小切手金債権を有していたものと認めるのが相当である。されば、被告人が既に見た如く昭和三三年一二月一八日ころ、帝国鑵詰株式会社のため同会社代表取締役たりし新海貞雄に対し、金三万四千円を引渡すべき責務のあつた当時、被告人としては、同会社に対し、既に支払期の到来した金五万三千円の反対債権を有していたことになる。ところで、論旨は、被告人は前記三万四千円の支払債権と五万三千円の反対債権とを対当額において相殺したというのであるが。被告人が当時、新海に対し、その主張の如き相殺の意思表示をした事実は、本件記録並びに当裁判所における証拠調の結果に徴するもこれを認める資料がないので、相手方に対する意思表示により初めて効力を生ずる相殺としては、先ず、被告人の帝国鑵詰株式会社に対する前記三万四千円の引渡債務の性質の如何を問わず、適法な相殺として効力を生ずるに由ないものといわなければならない。然し、被告人が右の反対債権を有していたものである以上、右相殺の意思表示の有無に拘わらず、被告人において内心相殺の意思を有していたものと認定することは、毫も差し支えはないわけである。さて、金銭に対する所有が一般に貨幣の表示する金銭価値に対する支配を内容とするものと観念されるものである以上、被告人の如く為替手形の割引により他から金融を受けることの依頼を受けた者としては、必ずしも、その割引により他から金融を受けて受領した金員そのものを、即ち、これを特定物として割引依頼主に交付するまでの必要はなく、その受領した金員と同額の金員を該依頼主に交付すれば足りるものというべく、ただ当初受領した金員と同額の金員を依頼主に交付すべき資力、資産のない者、若しくは当初からこれを依頼主に交付する意思のない者が、その受領した金員に対する価値の支配を、擅に自己の支配に帰せしめた場合にのみ、その時に、その受領した金員に対する不法領得意思の実現行為があつたものと認めて、刑法上横領罪の成立が認められる、というべきである。従つて、斯の如く、右割引により他から金員を受領した者が、必ずしも、その受領した金員そのものを、割引依頼主に引渡交付する必要がないものである以上、割引依頼を受けた者の負担する割引金の引渡交付の義務の内容は、割引依頼主との間に特段の取りきめがなされていない以上、その受領した金員と同額の金銭債務に換元して考えても毫も支障のないものといわなければならない。そして、金銭の横領について、このように解することが、取引手段としての金銭に対する民事法上の観念ともよく適合する所以である。さて、本件において、為替手形の割引により他からの金融を依頼した新海貞雄(但し、同人は帝国鑵詰株式会社のためにしたものであることは既に認定したとおりである。)と、その依頼を受けた被告人との間に、特段の取りきめのなされたことは、本件記録並びに当裁判所における事実調の結果に徴するもこれを認め難いものである以上、被告人は、前記加古博和から金融を受けた現金四万四千円中新海貞雄に引渡した一万円を除いた残金三万四千円についても、これと同額の金員を同人に支払うべき債務を負担していたものというべきである。そして、当時、被告人が既に見た如く、帝国鑵詰株式会社に対し、金五万三千円の反対債権を有していた以上、右為替手形の割引依頼を受け同会社に対し支払うべき金三万四千円の債務につき、特に相殺禁止の特約の認められない本件では、被告人がこの三万四千円を前認定のとおり自己の用途に使用したとしても、反対債権と対当額において相殺の意思のもとに、これを自己の支配に帰せしめたものと認めるのが相当である。(もしこれを反対に解するときは、被告人としては、帝国鑵詰株式会社に対し取立困難な債権を有するだけで、逆に同会社に対しては即時その債務の支払いを強制されるという結果となり、著しく衡平を失するもので、当裁判所としてはとうてい賛成できないところである。)以上の次第であるから、論旨にいうか如く本件において、適法な相殺のなされたことは認められないとしても、被告人が公訴事実にいう前記金三万四千円を自己の用途に費消するについては、相殺の意思でこれをしたもの、即ち、不法領得の意思のなかつたものと認めるのが相当である。

果して、然らば、被告人の相殺の主張について、何ら首肯すべき判断を示すことなく、直ちに本件公訴事実を肯定して、原判示の如く横領罪の成立を認めたことは、法令の適用を誤つたか又は事実を誤認したものというべく、論旨は理由がある。

よつて刑事訴訟法三九七条一項により原判決を破棄し、同法四〇〇条但し書により当裁判所は左のとおり判決する。

本件公訴事実は被告人はかねて新海貞雄より株式会社伊藤商店社長伊藤商平の引受にかかる裏書人帝国鑵詰株式会社専務取締役新海貞雄なる金額十五万円の為替手形四通を金融業者から割引いて貰いたい旨の依頼を受け、昭和三三年一二月一八日ころ、金融業者加古博和から同手形の割引内金として現金約四万四千円を預り、自己において保管中、名古屋市中村区大宮町二丁目四八番地の自宅において擅に右金員のうち現金三万四千円を着服して横領したものであるというにあるが、右事実はこれを証明するに足る証拠がないから、刑事訴訟法四〇四条、三三六条に則り無罪の言渡をなすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 影山正雄 裁判官 谷口正孝 裁判官 中谷直久)

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